東京地方裁判所 平成6年(ワ)23665号 判決 1996年8月26日
原告
甲野太郎
外五六名
右原告ら訴訟代理人弁護士
吉野正三郎
同
野間自子
同
久保田理子
同
清水三七雄
同
原口健
同
河野弘香
同
本山信二郎
同
船橋茂紀
同
松井清隆
同
木下直樹
右訴訟復代理人弁護士
奈良次郎
被告
株式会社ハウジングセンター
右代表者代表取締役
小嶋進
右訴訟代理人弁護士
船尾徹
同
清見榮
同
海部幸造
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 原告らの請求
被告は、別紙請求金額一覧表(以下「一覧表」という)氏名欄記載の各原告に対し、これに対応する同表計欄記載の各金員の合計三二九〇万円、並びに原告らに対し合計三二九万円と、右各金員に対する平成六年一二月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
原告らは、その所有・居住する七階建マンションの南側に被告が七階建マンションを建設したことにより、日照権が侵害されたこと、建設工事による騒音・振動・塵埃等に悩まされたこと、建設工事の強行により精神的打撃を被ったこと等を主張して、被告に対し、損害金支払約定及び不法行為に基づく損害賠償として、一覧表計欄記載のとおりの金員(合計三二九〇万円)と弁護士費用相当損害金三二九万円の支払を求める(なお、原告らは、本件訴訟に先立ち、本件建物の建築工事続行禁止を求めて仮処分を申し立て、後にこれを取り下げた経緯がある。)。
一 争いのない事実
1 原告らは、別紙物件目録<原告側物件>記載の鉄筋鉄骨コンクリート造陸屋根七階建マンション(以下「原告らマンション」という)に居住もしくは一室を所有している者である。
2 被告は、土木建築業等を目的とする株式会社であり、平成五年一一月ころ、別紙物件目録<被告側物件>記載の鉄筋鉄骨コンクリート造陸屋根七階建マンション(以下「本件建物」という)の建築工事に着工し、同六年一〇月ころ、これを完成させた。
3 本件建物及び原告らマンションが存する地域(以下「本件地域という)は、準工業地域、準防火地域、第二種高度地区に指定されており、「しながわ区民公園」に隣接している。
4 被告は、原告らを対象に、数回に渡り本件建物の建設に関する工事協定書の締結に向けた説明会を実施し、日照侵害補償として三〇分につき一万五〇〇〇円、工事迷惑料として一人二万円、説明会出席手当として一回三〇〇〇円、右合計額四五六万六〇〇〇円を支払うことを提案していたが、前記仮処分審尋の場で右提案を撤回した。
二 争点
(原告らの主張)
1 損害金支払約定の存否
一般に、建築協定なるものについては、建築基準法第四章が建築協定について規定していること、各地方自治体が建築協定条例を制定していること、建設業者は地方自治体から建築工事について近隣住民の同意・協力を得るために工事協定書を締結するよう指導されていること等からすれば、右協定書締結の前提としての日照侵害補償及び工事迷惑料(施工中の一過性迷惑に対する慰謝料の性格を持つもの)の支払は商慣習化しているというべきであるところ、本件の場合においても、被告は、品川区より近隣住民と工事協定書を締結してから着工するよう指導を受けたため、前記のとおり、原告らに対し日照侵害補償および工事迷惑料として一覧表日照侵害補償欄及び工事迷惑料欄記載の各金員の支払を提案したものであるから、右は本来は慰謝料としての性格を持つものの、実質的には右の提案により原告らとの間で右損害金支払の合意(以下「損害金支払約定」という)をしたものとして捉えるべきである。
2 本件建物の建設に伴う不法行為による損害賠償義務の存否
(一)本件建物による日照侵害
一覧表日照侵害補償欄に侵害時間及び補償金額が記載されている原告ら二八名は、本件建物の建築により、冬至期に右侵害時間記載のとおり(最大三時間)日照を侵害され、右補償金額記載のとおりの損害を被った(三〇分あたり一〇万円)。
本件地域は、「しながわ区民公園」に隣接し、交通至便の地理的状況から近年住宅地に変貌しつつあり、現在では実質的には第二種住宅専用地域に指定されても当然の環境にあるうえ、本件建物の廊下から原告らマンションの原告ら宅が覗かれるものであるから、右侵害は受忍限度を超えるものである。
(二) 本件建物の建築工事による騒音、振動、塵埃等の発生
原告らは、被告の本件建物の建築工事に伴う騒音、振動、塵埃等の発生により、一覧表工事迷惑料欄記載のとおりの損害を被った(一名あたり三〇万円)。
(三) 工事協定書を締結しないままの本件建物の建築工事の強行
被告は、工事協定書を締結するまでは着工しないという原告らとの口頭の約束があり、また、工事協定書を締結してから工事に着工しなければならないにもかかわらず、原告らが被告の日照侵害補償等支払の提案に応じないとわかると、本件建物の建築工事により被害を受ける程度が原告らに比べてはるかに少ない一部の近隣住民に対してのみ高額の補償金等を支払って工事協定書を締結し、品川区に対しては住民の同意が得られたと説明して工事を強行した。このように、被告が協定書を締結すべき原告らと協定書を締結しないまま工事を強行したことは、いわば一種の騙し討ちのように原告らに著しい精神的打撃を与えその人格権を侵害するものであって、「品川区中高層建築物の建築に係る紛争の予防と調整に関する条例」にも違反する不法行為であり、原告らは右不法行為により精神的苦痛を受け、一覧表慰謝料欄記載のとおりの損害を被った(一名あたり一〇万円)。
(四) 弁護士費用
原告らは、被告の右各不法行為により、本件訴訟の弁護士費用相当分の損害(一覧表計欄記載の合計金額三二九〇万円の一割の三二九万円)を被った。
3 被告は、原告らが日照侵害等を理由とする本件建物の設計変更と、日照侵害補償及び工事迷惑料の増額を求めた際、本件建物の建築工事により被害を受ける程度が原告らに比べてはるかに少ない他の近隣住民に対して高額の工事迷惑料を支払って工事協定書を締結し、品川区から建築確認を得るやいなや、右提案を撤回して建築工事を強行したものであり、被告の右支払提案の撤回及び本件訴訟における受忍限度論の主張は、信義則に反し許されない。
4 よって、原告らは、被告に対し、損害金支払約定による損害金支払請求権及び不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告らそれぞれに対し一覧表計欄記載の金員、原告らに対し合計して弁護士費用相当損害金三二九万円並びにこれらに対する訴状送達日の翌日である平成六年一二月一七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(被告の主張)
原告らの主張は否認又は争う。
1 損害金支払約定の存否
被告が原告らに支払を提案した日影補償及び工事迷惑料は、監督官庁の行政指導及び被告の営業政策により、できるだけスムーズに建築計画を実施するための解決金もしくは協力金にすぎず、この支払が商慣習化しているものではないし、原告らが、過大な金銭要求をして工事に同意せず、協定書の締結も拒否した以上、損害金支払約定は成立しなかったものというべきである。
2 本件建物の建設に伴う不法行為による損害賠償義務の存否
(一) 本件建物の建築による日照侵害について
原告らマンション中、本件建物により日影となるのは南側の部屋だけであること、右建物の七階部分は日影の影響を全く受けないこと、原告らのうち二九名は全く日照被害を受けないこと、日照被害を受ける者も最大二時間五〇分にとどまること、建設省の「公共施設の設置に起因する日照阻害に係る費用負担基準」によれば、本件地域において日照侵害が受忍限度を超えるのは二階部分で五時間を超える場合とされていること、本件地域は準工業地域であるところ、かかる用途地域の指定は平成元年に全面的な見直しがなされたものであって、事務所・店舗・工場等が多く実質的に準工業地域である現状を十分に反映していること、本件地域は全体に高層化が進んでいる地域であること、原告らマンションは本件地域で最も高い建物であり、右高層化に一役買った建物であるから、原告らマンションの南側に同じ高さの建物が建設されることは原告らも予測できたこと、マンションの先住性は重視できないこと、本件建物の廊下から原告ら宅をわざわざ覗くことは通常考えられず、双方建物の位置関係からすれば本件建物から覗かれない原告らが二二名存すること、双方建物間の距離は約一八メートルもあること等の事情によれば、原告らの主張する日照侵害は受忍限度を超えるものではない。
(二) 本件建物の建築工事による騒音、振動、塵埃等の発生について
原告らは、何ら受忍限度の範囲を超えたことについての主張・立証をしていない。
(三) 工事協定書を締結しないままの本件建物の建築工事の強行について
被告は、本件建物の建築工事につき合計六回の説明会を行い、近隣住民の質問に丁寧に答え、資料の提供・説明をし、改善すべきところは改善するなど誠実に行動してきたにもかかわらず、原告らが提案額が安すぎるとして工事協定締結を拒否したため、やむを得ず他の近隣住民と工事協定書を締結し、一部住民との間で工事協定を締結できない場合の処置として品川区から指導を受けていたとおり、工事念書を原告らに配付したうえ、本件建物の工事に着工したものであって、何ら工事を強行したものではない。また、被告は、原告らとの間で、工事協定書を締結するまでは工事を着工しないとの口頭の約束をしたことはない。
3 被告が右支払提案を撤回したのは、原告らの過大な金銭要求とかたくなな着工拒否の態度により原告らとの工事協定書を締結できなかったばかりか、日照侵害を全く受けない者が債権者のほぼ半数を占める濫訴的な仮処分の申立を受けるに至ったからである。したがって、被告の右支払提案の撤回及び受忍限度論の主張は、何ら信義則に反するものではない。
第三 争点に対する判断
一 争点1(損害金支払約定の存否)について
1 当事者間に争いのない事実及び証拠(甲第五、第七、第一〇号証、乙第一三ないし二〇号証、証人三橋正和の証言、原告工藤実本人尋問の結果)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(一) 被告は、平成五年七月一九日、同月三一日、同年八月二三日、同年九月一五日、同月二八日、同年一〇月一二日の合計六回にわたり、原告らを含む近隣住民を対象として本件建物の建築工事についての説明会を開催し、本件建物の建築概要、建築期間等について説明した。
(二) 原告らは、被告に対し、同年八月二三日の第三回説明会において、本件建物については基本的に建設反対の態度を表明し、同年一〇月一二日の第六回説明会において、日照侵害補償及び工事迷惑料の話を出した。
(三) 被告は、本件建物が建築基準法等の規制に適合している以上損害賠償義務があるものではないと判断していたが、行政側から工事協定書の締結を要望されていることも勘案し、建築をスムーズに進めるため、営業方針として、損益分岐点の範囲内で原告らに対して協力金を支払うこととし、原告渡部小四郎(原告らマンションの管理組合理事長)から送られてきたサンプルに基づき算出した日照侵害補償(三〇分につき一万五〇〇〇円)及び工事迷惑料(一人二万円)を基準にして、原告らマンションの住民に対し合計四五六万六〇〇〇円を支払うことを原告らに提案した。
(四) 右原告渡部は、被告に対し、右提案額が安すぎるので工事協定書を締結できないと連絡し、被告はその後一、二回交渉したが、原告らの右意思は固かった。被告は、原告らとの間で工事協定書を締結することは不可能と判断し、同年一二月一七日、原告ら以外の近隣住民に協力金を支払って右住民らとの間で工事協定書を締結し、品川区の了解を得て、原告らに対しては、工事念書を配布した上で、本件建物の工事を本格的に開始した。
(五) 原告らは、平成六年六月ころ、被告に対する本件建物の建築工事続行禁止仮処分を申し立て、被告は審尋の場において前記提案を撤回した。
2 右認定事実によれば、被告が原告らの要望により日照侵害補償及び工事迷惑料名目で金員の支払を提案したのは、行政指導及び営業政策によリスムーズに建築計画を実施するための協力金として、任意に支払を提案したものにすぎず、原告らが工事協定書の締結を拒否したことにより、右協力金支払の提案は合意に至らなかったものと認められるから、右の点に関する損害金支払約定が成立したとの原告らの主張は採用することができない。なお、原告らは、建築基準法第四章、各地方自治体の建築協定条例、行政指導を根拠に、日照侵害補償及び工事迷惑料の支払が商慣習化している旨主張するが、甲第六号証によっても右のような商慣習が存在するとまでは認められず、他に右商慣習を認めるに足りる証拠はないから、原告らの右主張を採用することはできない。
二 争点2(本件建物の建設に伴う不法行為による損害賠償義務の存否)について
1 本件建物の建築による日照侵害について
日照侵害は、その侵害が社会生活上一般に受忍すべき限度を超えた場合に初めて違法となるものであり、右の受忍限度は、被害の程度、並びに東京都の日影条例等が定める日影規制との関係、地域性、被害回避の可能性、加害建物の用途、先住関係、加害建物の建築基準法違反の有無、交渉経過等を総合考慮して判断されるべきところ、当事者間に争いのない事実及び証拠(甲第一〇号証、第一一号証の一ないし一四、一七ないし二〇、乙第一ないし四号証、証人三橋正和の証言、原告工藤実本人尋問の結果)によれば、本件地域は、「しながわ区民公園」に隣接するものの、都市計画法上の準工業地域(主として環境の悪化をもたらさない工業の利便を図る地域)、準防火地域、第二種高度地区に指定されており、容積率二〇〇%、建ぺい率六〇%であること、右用途地域の指定は比較的最近(平成元年一〇月)に見直されたものであり、実際に工場、事務所、店舗等が多々存在すること、本件地域には、四階建以上のマンション等が多々存在し、高層化が進んでいること、そして、本件マンションの建築によつて、原告らマンションの一部の居室の日照時間が従前より短くなったこと、原告らの一部の者は、本件建物から覗かれるとして昼間でもカーテンを閉める等していることがそれぞれ認められる。
しかしながら、証拠(甲第三、第四号証、乙第二号証)及び弁論の全趣旨によれば、東京都の日影条例による日影規制においては、冬至期の午前八時から午後四時までの八時間のうち、敷地境界線からの水平距離が一〇メートルを超える建物につき、準工業地域において規制される日影時間は三時間以上であること、本件建物による日照阻害を受けるのは原告らマンションの南側の部屋のみであること、原告らマンションの七階部分は日影の影響を全く受けず、原告らのうち一覧表記載1、7ないし9、14ないし17、24ないし27、33ないし35、39ないし42、48ないし57の二九名は全く日照被害を受けていないこと、日照被害を受ける原告らについても、日照時間の短縮は冬至期で最大約三時間弱にとどまることが認められる。また、プライバシーの点については、証拠(甲第四号証)によれば、本件建物と原告らマンションの位置関係からみて、一覧表記載1、7ないし9、14ないし17、24ないし27、33ないし35、39ないし41、48ないし50、57の二二名はそもそも本件建物から覗かれ得ないことが認められる。またその余の原告らについても、証拠(乙第八号証の一)によれば、本件建物と原告らマンションは約一八メートル離れていることが認められるうえ、本件建物から右原告らの居室が常時覗かれていることを認めるに足りる証拠はない。
その他、本件建物が建築基準法に違反していることを認めるに足りる証拠はなく、また、前記一1認定の交渉経過からすれば、被告が話し合いもせず一方的に工事を強行した等の事情は認められず、逆に原告ら以外の近隣住民は工事協定書を締結して右工事に同意している等の事情が認められる。
以上によれば、原告らのうち前記二九名については日照侵害の事実が、前記二二名についてはプライバシー侵害の事実がそもそも認められず、その余の原告らについても日照やプライバシーにつき受忍限度を超えた侵害があったと認めることはできない。
2 本件建物の建築工事による騒音、振動、塵埃等の発生について
甲第一一号証の一ないし二三及び原告工藤実本人尋問の結果中には、原告らが本件建物の建築工事により騒音、振動、塵埃等の被害を被った旨の記載及び供述部分があるが、右記載及び供述は、騒音、振動、塵埃等の程度・態様・継続時間、被害内容・程度について具体性に欠けるため、右各証拠から、原告らが受忍限度を超える被害を被ったとの事実を認めることはできず、他に、本件建物の建築工事により、原告らに受忍限度を超えた被害が発生したことを認めるに足りる証拠はない。
3 工事協定書を締結しないままの本件建物の建築工事の強行について
前記一認定の交渉経過等からすれば、被告は、合計六回の説明会を行い、協力金の支払を申し出る等して本件建物建設についての原告らの同意を得るべく努めたが、原告らから協力金の額が低すぎる等として工事協定書の締結を拒否されたため、やむなく協定書を締結しないまま品川区の了解も得て工事に着工したものであり、前記説示のとおり被告において原告らに協力金を支払う法的義務が認められない以上、被告が工事を開始したことは、原告らの人格権を何ら違法に侵害するものではない。
なお、原告らは、被告との間で、工事協定書を締結するまでは工事を着工しないとの口頭の約束を締結したと主張するが、かかる約束が成立したことを認めるに足りる証拠はない。また、原告らは、被告の右行為が「品川区中高層建築物の建築に係る紛争の予防と調整に関する条例」に違反すると主張するが、右条例のいかなる規定に違反するのかについて具体的な主張がないうえ、仮に、右条例に違反していたとしても、それが直ちに原告らの人格権を侵害するものともいえない。
したがって、原告らの右各主張はいずれも失当である。
4 以上によれば、被告につき不法行為の成立を認めることはできないから、原告らの被告に対する不法行為に基づく損害賠償請求は、その余の点につき判断するまでもなく、いずれも理由がない。
三 なお、原告らは、被告の支払提案の撤回及び本件訴訟における受忍限度論の主張が信義則に反すると主張するが、前記一認定の交渉経過及び前記のどおり損害金支払約定が成立したと認められない以上、右提案の撤回及び受忍限度論の主張が信義則に反するとはいえないから、原告らの右主張は失当である。
四 よって、原告らの本訴請求は、いずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大和陽一郎 裁判官阿部正幸 裁判官菊地浩明)
別紙<省略>